らしさや気質

黒澤明の侍の映画を見て、
江戸時代とか、欧米の文化が日本に入ってくる前の人達は
道ばたでも何処でも「しゃがむ」という事が何処でもできたというか、
しゃがんでいる人を目にする事ができた

夫と一緒にその映画を見て、
道ばたで股を広げてしゃがみ込む古き時代の日本人は彼ら欧米人にどう見えるのだろう?
と素朴に不思議に思った

しゃがまない線香花火も想像できない

でも、今、道ばたでしゃがんでいる人を見る事は少ないし、
もし子供がしゃがもうとしたら大人は「お行儀悪い」とか「みっともない」と言われるのでは?

私が20代の半ばの頃、当時付合っていたちょっと年上の人とグアムに行った時の事
コンドミニアムの入り口で彼を待っていて疲れてしまった私は、
柱の近くでしゃがんでしまった、、、、勿論股は閉じていましたけどね、、
そして彼に、
「そんな風に座り込んでは絶対駄目だ、疲れたら壁に寄りかかるとかしなさい、
欧米ではそんな風に座り込むのはマナーができていなと思われる」
いたって当たり前の事かもしれないけど、
海外に2、3回ちょっと旅行で行った事のあるだけだった私は、
私はそんな彼のアドバイスに「そうなのか」と有り難く感謝したのを今でも覚えている
そして、自分がどういう風に振る舞わなくてはいけないのか?
を色々な意味で意識させてくれたのも彼だった

私の子供の頃は「ヤンキー座り」というのもあった
雪駄とか、女物の突っかけを引っ掛けしゃがみ込むヤンキーのお兄ちゃん達
今の人には想像できないかもしれない
(そもそもヤンキーという言葉自体今は知らない人も居るのでしょう、、、)

しゃがむ、とは違うけど、正座に付いても考えてみた。。。
東京などの大都市で、欧米化された住居の中で育った子供達の中には、
もしかしたら生まれてこのかた一回も正座をした事が無い人も居るのではないか?

日本人の気質はやっぱり畳文化を始めとする
江戸時代までに作り上げられて日常生活の文化を元に作り上げられたものだと思う

正直言って、私の夫には私が愛するスタイルの家はデザインできないと思っている
それはやっぱり、彼が床に近い生活をした事が無い事
つまりは家の中での目線が違うのが一番大きな違いだと思う

だからそうした建物や、生活のあり方が消えてしまったら
いつかは私が知っている日本人というキャラクターを持った人種は居なくなってしまうのではないだろうか?

たかだか40年しか生きていない私が言うのもなんだけど、
ここ20年の日本で失われたものはすごく大きいと思うし、
失ってはいけなかったものがその中に沢山含まれていると思う

最近、北野武さんの「超思考」をずっと読み返している
そしてその中にそうしたものが沢山書かれている
やっぱり生きるという事は思考であり、如何に意識するか?という事であり、それが無くなったら、如何に日本という枠があっても日本人らしさや気質は無くなってしまうのではないかと思う

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